昭和50年06月13日 朝の御理解
御神訓 「悪い事を言うて待つなよ。先を楽しめ。」
どうでしょうか。信心をさせて頂いて居って、私がおかげを頂かん筈はないと、いよいよ確信が強うなって行く様な信心を、させて頂かないと先は楽しめません。私がおかげ頂かん筈は無い。親先生の御教えを頂いておかげ頂かん筈はない。親先生任せになっておるのだからとそれが確信になって来る。だから先が楽しい。ですから今日の例えば苦労も修行も、それは有難いものになって来る。
信心さして頂いて、おかげ頂き切る事は、頂き切るじゃろうかと、言わば、取り越し苦労ばかりをしておったんでは、又、不安な心でばっかりあったんでは、本当のおかげになりません。
教祖様のお言葉の中に昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しめという御教えがあります。昨日を忘れ、今日を喜び明日を楽しめ、確かにその通りなのですけれども、なか々どっこいそういうわけにはいかんのです。昨日の事が忘れられん。人から例えば、まあ腹んたつようなことを言われた、それが、頭に残ってこびり付いてね、その事、が悔しゅうて悔しゅうて堪らん。是ではいけません、何時までもいうならば日に日に生きるが信心なりと言われる位。
日に日に生きるということは、日に日に自分が空しゅうなって行く。自分が死んで行くということです。ですから昨日の事が忘れられない、もちろんここでは何も彼も忘れてしまってということじゃないです。心配になる事やら、まぁありとあらゆるおかげの受けられない様な心の状態はいけないと云うのです。
ですから例えばどういう例えば人に、もうそれこそ頭に来るようなことを言われてもです、その事のおかげで自分が反省出来、その事のおかげで自分が改まる事が出来る。その事のおかげで自分を見極める眼が出来て来ると、いうような生き方をさせて頂かなければ昨日は忘れられません。もうあん奴がいうことは忘れられんと、いうて何時までも恨みが残るようなことになります。
だから如何に信心にならなければ、昨日は忘れる事は出来ません。同時に今日を喜ばせて頂くといったようなことは尚更でけません。昨日のそうした心の状態が残っておるとするならば、不安が心配が残っとるとするならば、どうでも信心の道に叶わなければ忘れる事も今日を喜ばして貰う事も、尚更明日を楽しむといったようなことは出来ません。
只楽天的にどうとかなるくさいと、いった事ではいけんのです。いわゆるそれが 確信に満ちたものでなければ出来ません。私しがおかげを頂かん筈はない、おかげになると。是は私くしが一番難儀の
此処でテープが切れて6月14日 朝の御理解に切り替わった。
元テープを聞いたが元テープには入っていない
中にあった時でも私がおかげを頂かん筈は絶対ないと言いよりました。人にそれを話よりました。人も又それを認めて、いや大坪さん彼方がおかげを頂きなさらんならちょいと金光様の教えは皆しらごつと云う事になりますよと、云う風に皆さんが言うて下さる位にやっぱり一生懸命だったと思うんです。
私がおかげ頂かん筈は絶対ないと、今から考えて見るとまあ二十数年前のその時分の信心を、成程一生懸命ではあったけれどもです、それは実におこがましい、慢心した話だったですけど、矢張り一生懸命だったと云う事です。とても私位な信心ではおかげ頂き切るめえと是ではいけません。私しは私なりに
是は簡単な御教えですが、悪い事を云うて待つな先を楽しめと仰るから、悪い事云うて待ってはいかん。先を楽しめそう云う風に言うて聞かせる訳にはいかんです。本当に悪い事を言わんで済む心にならなければ駄目なんです。
だから信心に本気で取り組んどらなければ、所謂取り越し苦労ばっかりせんならんです。
又此処の御教えですが、悪い事を言うて待つなよと云われるが、待つ訳ではないけども悪い事を言うておる様な場合があります。小倉の桂松平先生が、その時分に日露戦争当時ですから戦債ですかね、国債の様なものが隣組ですかね、当時の門内にずーっと回って来る。あちらの世話をなさっていたそうですから、それを何十枚なら何十枚引き受けなければならない。
それで或信者にそれを薦められた。所がその信者さんもその門内でも買わんならんし、又教会に行けば教会で買わんならんから断わられる言葉がですね、まあそげん買いは出来ませんと云う意味の事を言われたのでしょう。
その時桂先生が俺の所の様に貧乏教会でも是だけ買ったぞと仰ったそうです。俺の所の貧乏教会ですら是だけ買ったぞと、そしたら神様からね「桂松平、汝にいつ神が貧乏させたか」と言われたそうです。神様から。
成程その日暮しではあってもです、一遍でもなら食べなかったとか、云うなら必要なものが必要な時に頂けなかった事はないじゃないかと云う訳です。こんな事は、悪い事を云うて待った訳ではない。冗談にでもですそういう仇口を使ってはいけない事が解ります。
椛目の時代でした。私はあの時分は本当に門外不出ですから、本当に出来ませんでした。もう朝から晩まで御結界奉仕させて頂くのです。もうですからもう本当に人懐かしいと云うですかね、あの梅雨の大変お湿りの日でしたが、御結界に座らせて頂いておりました。外はもう大雨でしたから、前の溝、小さい小川がありましたが、もう一杯になって流れておる時でした。
本当に一寸表まで出て見たい、今日の様な日にじっくり濡れて濡れて見たい、そして道を歩いて見たい。なにかそう云う様な時でした。丁度愛子と椛目の姪ですが泰子と二人幼稚園に通うて居たが帰って参りました。それで私が座っとったら、只今と此処へ二人がやって来ますからね。
今日はどげなお歌を習うたの、どげな遊戯を習ったの、今日習って来たのをいっちょここで歌いなさい。すると立って二人が歌うんです。自分の心がやるせないとか、切ないとか、立ち上がりたいとか外へ出て見たい様な時ですから、そしたら二人が此処に立って歌うんです。
雨が降ります、雨が降る。紅緒のカッコの緒が切れた。千代紙折りましょ、たたみましょ、もうそれを聞かせて頂きよったら涙が流れて涙が流れて仕様がないです。そしたら神様がね、表まで出て見よと神様が仰った。私の心が雨が降ります雨が降る。遊びに行きたし傘はなし。紅緒のカッコも緒が切れたと同じ状態でね、自分は出られないのだ。雨を見たい、雨にも濡れて見たい。けれども出られないのだと。
その二人の子供達が唄う歌の中からね、そう云う物を、それが何かせき上げて来る様に涙がこぼれる。そしたら神様がそんなにお前が外へ出て見たいなら外へ出て見ろとこういう訳です。それから表までヒョロヒョロと出てね、傘を差して出て表の東側の方からもう入口になってましたから、その小川の前に立った途端、前の石垣の大きな石がドドーッと崩えてそのまま溝の中へ落ち込んで仕舞うたです。
もう袴も羽織も濡れてしまってます。子供どんなら向こうの方へ流れて行くのだろうと思います。ほんに私がそこに立った途端に石垣が崩れたんです。そして神様がね、濡れたいと云うから濡らしたとこういう訳です。ですからね、如何に私共が無駄口とか仇口ですらいけないと云う事が解ります。もう私どんの様な貧乏人とはとかと云う様な事を云うてはいけない事が解ります。云うならば良い言葉、有難い言葉を使わせて頂く心掛けがなからなければいけません。
とても私だんおかげは頂ききらん。そんな事言うからおかげ頂ききらんとじゃ、ちっとはあの人は慢心じゃなかろうかと思われる位に、私くしはおかげ頂切らん事は絶対ないと私はもうそれを信じとりますと、言えれる信心を頂かにゃいけんです。
ましてや先を楽しめと仰るのですから良い言葉を使い、良い事を言うてしかも先を楽しませて貰えれる。貰う内容を作って行かにゃいけんです。只中には心配性の人もありゃ、楽天的な人もあります。それではどちらも通用しない言葉なんです。是は信心による確信です
勿論昨日を忘れると云う事なんかは、その時点時点を有難く頂かなければ、忘れられませんです。忘れると云う事はお礼を言えれると云う事です。昨日の事に対してでもどんな事があっとってもそれに対してお礼を言う心の状態が出来て来る。愈々今日を喜ばして貰う、そこからでなければ明日を楽しむ心等と、云う物は生まれて参りません。
今朝御祈念中に、唄とも何とも解らないのですけれども、こう云う事を頂いたんです。「天地に道あり、人の踏み行う道あり」と云う事を頂いてです、天地にも道がある。同時に人の踏み行う道もあると云う事です。人間には人間の道があると云う事なんです。天地には天地の道があると云うのです。
合楽の場合はですね、天地に道ある所が特に説かれますので人の道を踏んで行くと云う様な事に非常におろそかな所が御座います。所謂神乍らなと云う言い方をする時があります。人間は人間としてのちゃんと言わば道を踏み行うて、そして天地に道ありであり、それと是とが一つになって、初めて真の道が開かるれと云う事を頂きました。
真の道は開かるれと頂きました。私は是は合楽の一つの反省だと思わせて頂きます。人間的には詰らないけれども、信心が熱心と云う人があります。そういう人が合楽に多いですね。私共の場合人の道は人の道として、云うならば踏んで行って居る。そういう人の道をふんまえての、言わば天地に広がる道でなければいけないと云うことです。
まあ私くしが例えば、天地の道を漢字と草書で云うならば、人間の道は云うならば楷書であります。だから一遍楷書で書き習うて、人間的にも立派だなと云う様な生き方を身につけて、そしてそこから流れて来る神乍らの道、ですから楷書を稽古せずに只私くしが言うておる草書の所だけ見て書きますから、まるっきり親先生の字が書ける様であってもです、人に非難が多いです。
信心しよってあげな事で良いじゃろうかと言われる様な事ではいけない。信心しよんなさるから言われる事も、なさる事も立派だとそれが人の道です。神乍らの道と云うのはそれから先にあるのです。そういう私は天に道あり、人の踏み行う道ありと云う、この私は一つが一つになって一体となった時です、本当の道真の道が開かれて来るんだと云う事をです、思うのですけど、そうい生き方を本気で身に付ける修行をさして頂いとらないとです、今日私しが申します様な所は解らないと思います。
そういう修行をさして頂いておるからこそ、私しがおかげ頂けん筈はないと云う確信も生まれて来るのです。だから先が楽しまれるのです。昨日が忘れる事が出来るのです。今日を愈々有難いと楽しませて頂く事が出来るのです。悪い事を言うて待つなよ、先を楽しめと仰るから悪い事を言うちゃならん。そして明日は、を楽しませて頂こうと思うたり言うたりしただけではいかんのです。真から楽しませて貰える確信。真から昨日の事が忘れられる信心。
例えば人から腹の立つ様な事を言われた。傷付けられる様な事を言われてもう、云うなら頭にきて居る。もうあん奴が上げな事言うた事一生忘れんと言った様な事では、もう胸にあるから、心にあるからもうおかげの邪魔になるのです。
だから言われたその事が腹が立つならばです、一時はそう言われてもです、それを反省の糧とさせて貰うてです、ほんに言われりゃ言われる通り自分に言われたとなるとです、その言われた人は神様の様に見えて来るです。ですから恨みとかそねみとか残らないです。 恨みつらみがない心の世界が開けて来るのです。だからそれに対してでさえお礼の言えれる心を昨日を忘れと言う事だと思うです。
悪い事を忘れると云う事はもうなくなると。悪い事はないなくなる、お礼を言う事だけしかない。だから今日が喜ばれるのです。そういう信心をさせて頂くから明日が楽しまれるのです。その内容としてです、私共は天地に道ありと云うその道を体得すると同時に人の踏み行う道もあるのですから、是も矢張り人間としての道を私共が踏み行うて行くと云う事にならなければならんのです。
そこから真の道は開かれると云う事になるのです、ね。
どうぞ。